完っ全にサンウォンの影響で伊藤俊治著『増補 20世紀写真史』(2022)を読んだから、サンウォンの写真について喋る際に使えそうな語彙を引きながら本の日記でも書こうかと思う。最初に断っておくと、このブログは写真史、サンウォン、ALD1について知りたい方には向かないです。本は断片的にしか言及しないし、別にサンウォンについてもそんな話さない。本でただただ面白かったところと、私がサンウォンの写真に何を見出したがっているかという話を永遠にしています(恐怖)。もちろん引用などに関してはできるだけ誠実に書いてはいますが、日記なので悪しからず。
なぜサンウォンと写真なのか。それはひとえに私の素直な感受性のせい♩
📷#ALPHADRIVEONE #ALD1#알파드라이브원#SANGWON #상원 pic.twitter.com/9uzFB4LcNi
— ALPHA DRIVE ONE (@ALD1_official) 2026年1月28日
この写真たちを見て、写真うますぎると思って調べて、過去インスタとかも見つけたりして、気づいたらここにいました。サンウォンの存在を知って以来、良い構図を見つけたら写真を撮ったり、写真の展示にもちょこちょこでかけたりしている。あと丁度現代美術への興味の高まりもあって、京都国際写真祭(以後KG+)も1日+αかけて回れるだけ回ったりしていた。こちらはずっと気になってたから行けて良かった~。
本当に、自分が好きなものを好きなままで、もしくはもっと好きになりながら追いかけられるアイドルて最高で。私にとってはそれがサンウォンで。ありがとー。
早速本題。本でいちばん印象に残ってるのは「鏡と窓」の話(p.226-227)。1978年にニューヨーク近代美術館で「鏡と窓/1960年代以降のアメリカ写真」と名付けられた有名(らしい)な写真展が開かれたらしい。写真を「自己表現の手段とする<鏡派>と、写真を外界を探求するものとする<窓派>」*1に分類して展示したらしい。面白すぎる。
ちなみにこの鏡と窓理論?については、読書家で知られるルセラのユンジンさんも『老人と海』を読んだ時に、共感できるという意味での鏡、想像力をもたらす窓、という説明をしていた。一般的なのか、この展示を下敷きにしているかは分からないのだけれど、写真フォルダを整理してたら偶然このユンジンさんのインタビューのスクショを見つけてびっくりしたから(カラーバス効果♪)強引に記事にねじ込んでみた。
まぁ、この展示の後あたりから「写真は現実を写すもの」という共通認識だったものが揺らいでいき、この分類はその後の写真表現の展開を捉えるのには力不足になってしまうらしいのだけれど。KG+や最近行ったユージン・スミス展でも、この鏡と窓について考えることになったりしていた。
それは、自分の表現したいことを写真でやるってめちゃくちゃ難しくないか!?ということ。もちろん、例えばユージン・スミスの水俣だったり、ファトマ・ハッスーナ(Fatma Hassona)のThe eye of Gazaだったり(←最近見たのから引っ張って来たヨ)、直接社会に訴えかける力を持つ被写体を撮って、窓的な表現をすることはひとつの方法なんだけれど、私が撮る被写体は、それ自体が直接なんらかの社会的な問題を示しているいうことはあまりなくて、そういう中で社会との繋がりを見いだすのってめちゃくちゃ難しくないか!?となったのです。それでも私は鏡よりは窓的なことがやりたくて。KG+には光州の刑務所、陸軍病院を舞台に撮った作品があって、そこでは光と影を、場所が持つ歴史の二面性と結び付けていたのだけれど、ここまではっきりと意図を説明されるとなるほど、となるのだけれど、例えばSNSにポンと載せる写真でこれをやるのは難しすぎる、になった。でも例えば虹を映り込ませるとかで窓的な写真です!と言うこともできるかーと思ったり。(雑すぎるか)
というか、この鏡と窓、写真や本に限らず「すべて」に使えて面白いんだよね。例えば、私はサンウォンの写真に「鏡」的な要素を見いだそうとしている、という話をこの後ずっとするんですが、自分が見たものをファンに共有している、という点では窓的な要素があるとも言えるのか?と思ったり。
印象的だった写真家1人目はアルフレッド・スティーグリッツ(p.35-39)。ちなみに鏡と窓展をディレクションしたジョン・シャーコフスキーはスティーグリッツを鏡派の代表としているそう。スティーグリッツは写真を「自己の内的な経験と等価値のもの」とみなしたとあり、私もサンウォンの撮る写真に少なからず内面が反映されていると捉えて大萌えしているところがある。スティーグリッツは、この写真のシンボリズム*2の先導者でもあったらしく、
雲や空や湖のモノクロームの階調の世界に彼の感情を映しこもうとした。(中略)一枚の写真に自己と世界を結び付ける能力を与え人間の内部に閉ざされている流動的な次元を導き出そうとした。(中略)人間の手の加えられていない世界の形によって啓示された人間に内在する意味のあらわれとも呼べる(p.36)
とも書かれていた。つまりは人の手が入っていない自然を撮って、人間の感情を表現しようとしたってことだと理解したんですが(ちなみに自然にこだわっているのは、当時のNYなどの都市化とも関係ありそう。詳しくは本文へ…)。以前カウンターカルチャーに関する講演を聞いたとき、ジェントリフィケーションに抵抗する取り組みがいくつか出て来たのを思い出した。ノスタルジーだけじゃない人間性みたいなものへの危機感もあったのかも。ジェントリフィケーションへの批判は「正常性(誰がその都市に住むのにふさわしいとされるのか)」がメインであったとは思うんですが(記憶で喋ってるため間違いあるかも)。確かに自然風景が思い起こさせる一定の感情はあるよなぁと思った。どんよりとした雲に不安さを感じたり、木漏れ日に幸福感を覚えたり、そんな感じ。
ていうかジェントリフィケーションって連呼しながら드도시(ドラマ版大都市の愛し方)見てたら単語そのまま出て来て怖かった。カラーバス効果再び。
急に構図の話をするんですが、サンウォンの過去インスタとか、個人的に印象に残ってる最近のTwitter、プラチャの写真とか思いだしてみると、雄大な自然を撮ったり、ひらけた風景を撮る、みたいな写真はあんまり思い当たらなくて、手の届きそうな範囲、歩いたらせいぜい5歩くらいで届きそうな近さの写真が多いなと思っていて。セルカ及び人物写真は一旦除外します。ここで私が比較対象に想定しているのはジュンソの写真なんですけど。ジュンソの昔の個人インスタとかは見たことないし、最近の投稿もちゃんと見てるわけじゃないけど、よく撮ってる橋の写真とか、ビルの上から撮ったのかな~という写真において、なんていうか、サンウォンならたぶん手前の窓枠だったり、分かりやすく窓ガラスだったりを映り込ませる気がするけど、ジュンソにはそれがないんですよね。ここら辺は完全に印象の話なんですけど。とか言ってたら、まさに!な写真を見つけてしまったので嬉々として貼ったりしてみる。↓

https://artist.mnetplus.world/main/stg/ald1/story/feed/69834de4b5dd512761090602

https://x.com/ALD1_official/status/2028490765798887505?s=20
サンウォンのこの写真たちとかですね。

https://artist.mnetplus.world/main/stg/ald1/story/feed/6a0741d8d1c44d39fa2f773a

https://x.com/ALD1_official/status/2040066374480085257?s=20
構図的な好みなのかもしれないけど、サンウォンの写真って距離の近さを感じる写真が多いんですよね。ていうか、本当に!ここがこの記事でいちばん言いたいところなんですが、サンウォン、影響を受けた写真家はいますか?好きな写真集とかありますか?誰か聞いてくれないかなーーー。なんか知り合いに有名な写真家がいたってツイートだけ見たんですけど、仮に誰かに教えて貰っただけでこんな撮れますか!?
サンウォンの写真のルーツがソール・ライターしか出て来てないから(しかも持ってた写真集はリオにプレゼントしたってことは手放したってことですよね)なにを勉強してこのおしゃれすぎる写真にたどり着いているのか本当に分からない。センスかーーー。(自己解決)
ちなみに、本によると写真は当初、機械的で「芸術的な創造の感覚に全く欠けているものとして扱われていた」(p.66)らしく、そんな規範への抵抗みたいな側面が!とテンションが上がっていた。というか、写真に限らず芸術て当然視されてきたものに疑問を呈してきた経緯が多く見られて、カウンター表現好き人間としてだいぶ気が合う部分がある。
で、話を戻すとやっぱり、この精神的な何かをサンウォンの写真に見出そうとしているから、内面の投影、みたいな話を面白く読みました。サンウォンの無機質さがある白黒写真で입덕した身としては、20世紀初頭あたりのドイツの部分も面白かった。
「世界の物質性を見ると言うよりも人間の生きている環境の生(なま)の意味を発見することにそのエネルギーは注がれている。(中略)環境はある種の感情を表出するようになっていた。というよりもそう感じられるように、つまり人間の感覚のなかに無機物の世界と常に関わりを持つことによってその世界と非常に近似した精神がすでに育てられていた」(p.74)
この頃は「機械化」がひとつのキーワードで、人間も機械化されるような勢いの中、無機物の中に人間の存在を見出そうとする試みもなされていたらしく、サンウォンのこの花屋?の写真を思い出したりした。人も写ってないし、何より色がないのにあたたかみが感じられるのが面白くて。花、植物という被写体から私が勝手に感じ取ってるだけかもしれないんですが。全然有機物だし。

あとサンウォンの撮る無機物建物写真本当に好きです。記事の最初に引用したツイートのビルの写真とかこれとか。

https://artist.mnetplus.world/main/stg/ald1/story/feed/69baba716f62c871c207454d
マイナー・ホワイトについても面白かった。ホワイトは、岩や氷柱などのクローズアップに自己を投影しながら撮っていた人で、これは「窓」の役割を持つ写真が勃興した後、1950年代にはまた人々は自分の内面に視線を向けるようになった、という流れの中にあるらしい。そして、ホワイトにとって
写真行為とは、自らの構造の深化のなかに詩的現実を追求してゆくことであり、自己の現存性のなかに詩的時間を再発見させることに他ならなかった(p.163)
らしく、私がサンウォンの写真に見たいものすぎて大笑いしちゃった。ちなみに、ホワイトは自然物を被写体にしていて、上で述べたスティーグリッツと近いところに分類されてるぽい。
あとはリー・フリードランダー!めちゃ写真集欲しくなった。自分を映り込ませた『セルフポートレート』シリーズで有名らしく、下のギャラリーのページを見て貰ったら分かると思うんですが、映り込ませ方が面白い。そして、これ以外のシリーズの写真でも、タイミングや角度をめちゃくちゃ計算して撮っていて超おもしろい。なんていうか、この方法オマージュでセルカ撮ってくれないかな。サンウォンくんへ。
そう言えば本読んでたら、3月に釜山行った時に、白黒写真モチベーションが高すぎて行ったラルフ・ギプソンも出て来てルン♪だった。全部サンウォンくんのせいだよ。あれも展示方法が結構面白くて、3階建ての建物だったんですが、階を降りるたびに写真の湿度みたいなものが上がって行って面白かった。
サンウォンくんへ 京都で白黒写真を見たくなったら、京都現代美術館を一度覗いてみるのをおすすめします。結構白黒写真展をやっていて、ポスターが良かったら時々行ってる。
本にカラー写真は「白黒写真より芸術的に低い位置にあるとみなされていた(p.233)」との記述もあって、びっくりしつつもまぁ少し分かる気もしたり。でも色大好き人間としては賛同はしませんが。
「見られる存在」としての側面が強くあるアイドルが上げる鏡セルカって、見る、見られるの単線的な関係を少し複雑にしていて面白いかも、とか思ったりもした。
サンウォンくんだったらもっとヒリヒリする詩的な文章を書くのだと思うけれど、私の感性は現在というかずっと気を失ってるため、つまらない文章になっちゃいますね。韓国語でも書きたいな~。勉強と億が一にもサンウォンくんが見て写真家オマージュ写真とかを撮ってくれる可能性にかけるため。
最後に サンウォンくんへ マジでアイドルやってくれていてありがと~ね~ずっと忙しいと思いますが豊かな思索の時間を少しでも持てますように。









終わった後、プールになってる地面を地下鉄の入り口まで雨に当たりながら歩き、5号線のハオビンにジャックされたホームからホテルに帰っていた。メモ帳を持ち込んでいたものの、当日に全部書き出しておかないと既にない記憶が完全に消えてしまうため、ルーズリーフとシャーペンとメモ帳だけ持って近くのトゥーサムに日記書きに行っていた。キャロットケーキを食べたんですが、すごくおいしくて、次行った時別のケーキも食べたいな~と思っていた。おすすめです。
